日本カジノ学会理事長
メセナ「パチンコ110番」主宰
NPO日本アートアカデミー協会 名誉理事長
政治、社会、経済、女性問題など幅広い分野にて活動する。また、日本で唯一のカジノ雑誌『CASINO japan』主幹編集長。一方、自らが主宰する「日本パチンコ学会」に「パチンコ110番(注1)」 を無料で開設。
また、不況下の雇用増大策として、日本におけるカジノ合法化を 目的とした「日本カジノ学会」を組織、運営するなどユニークな活動でも知られる。
※注1 無料相談で依存症などの悩みにも回答者として時間を割くなどの活動
「総括日本が危ない!(腐蝕立国・日本)」(2000年6月出版)より抜粋
昭和20年8月の敗戦から間もなく、僕の伯父の室伏高信という当時は有名だった評論家が、戦後日本で初めて「民間憲法研究会」を作った。
 伯父の著書によると発案は元東大教授で大原社会問題研究所長を経て戦後の日本社会党の生みの親の一人となった高野岩三郎だったという。伯父は、敗戦直後、信奉者の実業家に担がれて「新生」(ヴィタ・ノヴァ)という戦後最初の総合雑誌を創刊し(昭和20年9月)、焼け野が原の銀座の新生社ビルの一角に事務所があった。その部屋で、伯父は高野岩三郎(のちNHK会長)、馬場恒吾(読売新聞社長)、岩渕辰雄(政治評論家、のち国鉄理事)、三宅晴輝(評論家、のちNHK理事)、鈴木安蔵(憲法学者)、杉森孝次郎(大学教授)、鈴木義雄(社会運動家)、森戸辰男(経済学者、のち文相)ら8名に呼びかけて「憲法研究会」を開催したのだった。
会議は主権在民が主題で、天皇の扱いが最大の論点になったと伯父は書き残している。伯父の証言だと、高野は最後まで共和制を主張して譲らず伯父は、英国王室を「シンボル」と表現したパジョット・ウォーターの著書を引用して「主権は国民、天皇は儀礼を司るシンボル(象徴)」と主張した。これは、伯父の証言だけではなく、憲法研究会メンバーの三宅氏は読売新聞の署名コラムに記録し、岩渕氏は雑誌「改造」座談会「復刊新生」エッセイに「天皇を象徴としたのは室伏高信」とそれぞれ証言している。実際、昭和30年代刊の人名録「日本の五百人」にもそういう趣旨の記事が記載されている。しかし、今日、「改造」特派員として第一次大戦後、アインシュタインを日本に招聘したり、象徴天皇制の発案者だった伯父のことは誰も知らない。
後年、ぼくは生前の伯父から、日本は象徴天皇制のほかに軍隊はスイスのミリシャ(民兵)制を主張したのだがという言葉を直接聞いている。民間憲法研究会は敗戦から4カ月後の昭和20年12月27日「憲法草案要綱」を公表、GHQに送った。高野氏は最後に袂を分かち「天皇制廃止・大統領共和制」の共和国憲法私案を発表したよ頑固な奴だと伯父は笑っていた。だから、僕は、こうした細かい埋もれた歴史に無知なくせに、「米国から押し付けられた憲法」とか、米国製憲法などという空論を前提に憲法論議をする徒輩を心から軽蔑する。それにしても、天皇制、財閥制度、地主制という絶対天皇制時代の前近代的な民衆支配機構を革新したのは、日本人だけの力ではなく、日本が敗戦で無条件降伏した外圧によるものだったのである。僕は、伯父の知られざる「偉業」をいまさらのように忍びながら、率直に女性天皇を認めない制度、天皇の自発的譲位を認めない制度、皇室を取り巻く宮内庁、ウルトラ保守政権などが皇室と近代市民社会を隔離する「カゴの鳥」扱いの慇懃無礼風潮、古代天皇賛歌の君が代をスリ変え解釈する政治的詐術、さらには肝心な「元首」論議の意図的不発などに絶対反対である。取り巻きの元凶宮内庁を廃止、古代考古学研究のため陵墓、皇室文化財公開促進などの諸施策推進を。
僕は、「構造汚職」(1968)、「一票一揆」(1987)、「非理法権金」(1990)などという新語を作って来た。それぞれ別項を参照していただきたいが、ここでは、「非理法権金」という言葉について述べよう。
 14世紀初頭、鎌倉末期・南北朝時代に楠木正成(くすのきまさしげ)という武将がいた。北条氏の鎌倉幕府に島流しになった後醍醐天皇の呼びかけに呼応して、正成は大阪河内の千早赤坂に挙兵した。各地に転戦して幕府郡を破り、天下の反幕勢力の決起を促した。しかし、鎌倉幕府は総力を挙げた大軍で鎮圧に乗り出し反幕軍を撃破。正成軍ひとり千早城にたてこもり、幕府軍に抵抗、ために再び反幕勢力復活、六波羅軍を壊滅、後醍醐天皇の建武政権が樹立されたのである。しかし、建武政権は施政宜しきをえず、短期間で動揺。不満を背に決起の足利尊氏軍が京都に迫った。先見の明のある正成は、最後の湊川の戦いに挑む上奏文を遺書とした。「今度ハ君(天皇)ノ戦必破ル(負ける)ベシ…コレスナハチ、天下君ヲソムケタテマツル証拠ナリ」「今度の戦争は天皇の建武失敗による人心離反が原因の正義の戦争だから、われら味方は負ける。しかし私はあえて死地に赴く」という壮絶なズバリ直言。近世以降日本の侵略戦争時代に、正成ほどの人物がいれば、歴史は変わっていたかも。彼が旗指し物に記した言葉が「非理法権天」。「非は理に勝たず、理は法に勝たず、法は権に勝たず、法は天に勝たず」〈理屈にあわないこと(非合理)は理屈(合理)にかなわない。合理は法には勝てない。その法も権力には勝てない。また権力だって天命にはかなわない。天下の国法も権力にはかなわない〉という言葉が、動乱の世に生きた正成の実感だったろう。法治国家は成立しないという賢将の言葉は重い。670年後の今日、日本国は一応法治国家と称するが果たしてそうか?二人の後の首相が連座した造船疑獄で権力が「指揮権発動」を強行、法を破り、両名の逮捕を「ないものにした」無法の戦後まで溯る必要はあるまい。前内閣の金融担当大臣が金融業者の集まりで「問題があればハナシに乗りましょう」という趣旨の発言で指弾・罷免された事実はまさに脱法の裁量政治・行政を端的に象徴。元国家公安委員長の秘書が自動車事故のモミ消し事件で警察に働きかけ収賄、元委員長自身が警察に直接「事情を聞」いたのは恫喝だ。じつは法治無視の政治家センセイの各種事件モミ消し程度はこの国では日常茶飯事。たまたまサされたのは、派閥争いの政争の具に供されたからに過ぎない。密告で法の適用が左右される裁量自体、法治国ではない。例の日本赤軍に対する「超法規的措置」も、日本政府自ら法治国放棄を宣言し、世界の嘲笑を買った好例だろう。風俗営業法第23条1項は「パチンコ景品の現金交換を禁止」している。にもかかわらず、この半世紀、毎年23兆円(99年)もの換金が警察の利権裁量行政で横行している。事実上の長期一党独裁腐敗政権の狂乱日本国は、非理法権天より次元の低い、マネーがすべての非理法権金と自嘲する所以(ゆえん)だ。イイカゲンな裁量行政や裁量社会から、支配層は無論、国民自身も覚醒の時ではないか。
 1991年版の『知恵蔵』に「室伏哲郎の造語」と記録された『一票一揆』という言葉。当時、僕は、バブル破裂で崩壊の徴候を見せ始めた制度疲労日本を蘇生させるのはこれしかないとひねり出した言葉である。1890年(明治23年)7月1日、日本の少数資格有権者(一定納税額以上の男子等)が初めて衆議院議員制限選挙に参加してから110年が経過した。第一回の投票率は91.59%。その後1925年(大正14年)に、財産、納税などに制限的要件を必要としない普通選挙が認められてからの1928年2月の初選挙の投票率は83.34%。以後1942年(昭和17年)の大政翼賛選挙(83.16%)までの投票率は83.34%〜73.31%の水準で推移。
 敗戦後初めての女性参加の第22回総選挙(46年4月:昭和21年)が72.08%。1955年2月、いわゆる55年体制開始の第27回総選挙のそれは75.84%。以降、自民党一党独裁長期政権が続く第39回(90年2月:平成2年)までの35年間13回の投票率は、第32、35、37回の各67〜68%を除きいずれも70%以上をキープしていた。投票率が突然59.65%に落ち込んだのは平成8年(96年10月)の総選挙だった。この投票率急減の傾向は参院選や地方議会選挙でも同様で、今日では50%台が各種議員選挙の常識的な平均投票率とさえ受け取られる事態に変貌してきている。
間接民主主義制にとって由々しき事態というべきであろう。その原因はいろいろあろうが最大のものは、35年間ほぼ70%台の投票率をせっせと続けてもいつも元の木阿弥、「自分の一票位で政治や世の中は変わらない」「だれが変わっても同じことさ」という「学習的絶望感」というやつではないか。これこそ長期独裁腐敗政権にとっては時の氏神、天の福音だろう。民衆の絶望の海に浮かぶ愚者の楽園てなもの。50%台×30%台のせいぜい有権者の2割弱の「多数政治」で中央集権政府に集まった税金をつかみガネで同じ穴のムジナの高級官僚(定年前にバラ撒き予算を背に議員当確で万年与党に合流)と組んで恣意の(なにしろ立法府も行政府も押さえているから)裁量行政を好き勝手にやらかすという仕組み。1968年すでにぼくはこの「構造汚職」体制の仕掛けを見破り、多数の著書で腐敗政治、行政に警告を発したが『汚職の構造』(岩波新書)『高級官僚』(世界書院、のち講談社文庫)以外はあまり読まれなかった。僕自身でさえ、“学習的絶望感”に襲われるほどの政治無関心層のアパシー(冷淡)の深刻さだった。しかし、日本の現実は、特にバブル崩壊以降、金融の大蔵省護送船団方式、不要公共土木事業投資や農業過剰保護と見返りの集票マシンなどの長期独裁延命の仕掛けの腐敗構造が次第に明るみに出て、無党派層が最大の“政党”の時代と化すに至った。かくして、僕は最大の“政党”を動員して現状打破を図る「一票一揆」と同時に、住民投票、国民審査、国民投票、直接請求権(地方)など直接政治参加の具体化、活性化を微力ながら叫び続けている。政権移譲のヤミ取引で「正統性」が疑われる森政権の支持率が世論調査で41%、不支持率が52%とか。呆れた政治的愚鈍、不感症が多数を占める数字ではないか。肝腎のミレニアムに、日本国民がマットウな「一票一揆」を行使しなければ、21世紀の日本は間違いなく危ない。
1956年(昭和31年)、日ソ両国の国交回復をもたらした日ソ共同宣言はこう規定している。「ソ連は、日本国の要望に答えかつ日本国の利益を考慮して、歯舞(ハボマイ)群島及び色丹(シコタン)島を日本国に引き渡すことに同意する。ただし、これらの諸島は、日本国とソ連との間の平和条約が締結された後に現実に引き渡されるものとする」
 この共同宣言は、北方領土問題に風穴を明ける規定で、その時点で、既に戦後11年も経過していたのだから、日本は親分の米国を動かして、ソ連と平和条約を結び、最低、歯舞・色丹を取り返すべきであったのだ。しかし、自民党政府は、1855年2月7日(安政元年12月21日)の日露和親条約などでも明らかなように、歴史的に択捉(エトロフ)、国後(クナシリ)は日本固有の領土。だから、1951年の対日講和条約で日本が放棄した千島列島にはふくまれないという見解をとっていた。そのため、歯舞、色丹二島の返還だけでは日ソ平和条約はできないという立場に固執したのである。なにも、失敗した過去に、結果論からケチをつけているわけではない。北方領土問題に関する根本的かつ細緻な政策論義、討論の「詰め」が、政府部内で外交交渉に望む前にできていないから、こういうことになるのである。第二次世界大戦中、1943年11月に米、英、支(中)三国首脳の合意したカイロ宣言は、日本国が「暴力及び強欲により略取した他のすべての地域から追放される」と規定していたが、45年2月に、米、英、ソの三首脳が合意したヤルタ協定では「樺太の南部及びこれに隣接するすべての諸島がソ連に返還されること」並びに「千島列島はソ連に引き渡されること」を規定している。敗戦後のサンフランシスコ講和会議で、吉田茂全権は、歯舞、色丹が北海道の一部であることを表明し、千島に属するものではないことを述べている。しかし、択捉、国後については千島列島に属することを、1951年10月の衆議院特別委員会で認めているのである。また、1995年になって、オーストラリアの公文書館で、1946年当時、日本政府が敗戦直後、連合国との講和条約に備えて作成した英文資料が発見された。それにも択捉、国後は北千島ではないが南千島として千島列島に属することを認めている条項が明記されているのだ。
こうした条約や文書類を踏まえれば、56年当時のソ連の二島返還論議は当然で、日本側はこれを受け入れ、早急に平和条約を締結すべきだったのである。なにしろ、親分の米国も、ヤルタ会談、講和会議での吉田発言、敗戦後の日本側講和条約準備英文公文書などをみれば、二島返還が論理の当然なのに、子分の自民党政府が四島一括返還論の日本固有領土論に固執していたので介入は見送ったというのが真相だろう。その後、ソ連は非論理的な四島一括論に反発、戦後半世紀以上も平和条約還延をはかる独善老獪政策に終始。一方、自民党政府は非論理と卑屈外交で北方領土問題解決先送りを余儀なくしてきたのだ。政権交代で論理的な二島返還の平和条約早急締結樹立後日ソ国交の正常化を図れ。